最後の更新(宣伝?)のあと、あれよあれよと新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中に広まり、多くの方がこれまでとは違う生活スタイルを強いられています。

人類は昔から様々な感染症と戦ってきました。日本も例外ではありません。疫病(感染症)はもともと、ある特定の地域で発生した風土病でした。しかし、地域間の交流が盛んになると、文化と一緒に疫病も伝えられるようになりました。 

古代と中世の日本では、病気は神罰や仏罰であると考えられ、神さまの怒りを鎮めるために、神社やお寺であらゆる祈祷や奉幣がおこなわれました。元号を変えれば病気を断ち切れるとも信じられ、疫病の流行を理由とした改元は20回を超えています。

江戸時代にはどのような疫病が流行ったのでしょうか。

風邪(インフルエンザ)

風邪はありきたりな病気ですが、「万病の元」ともいわれる通り、こじらせると死に至ることがあり、今も昔も油断のならない病気だと考えられていました。

平安時代の歴史書『三代実録』によると、貞観4年(862)に日本で風邪らしき病気が発生し、3年連続で流行したと書かれています。

その後、藤原定家が『明月記』の中で、鎌倉時代に大流行した風邪(インフルエンザと思われる)に言及していますが、前年に京を訪れた異国人が持ち込んだのではないかとも記しています。

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藤原定家
Fujiwara no Nobuzane / Public domain


対処方法のメインは神頼み。治療法としては、今でも現役?! 江戸時代の医療事情の記事でも紹介したように、食事や家庭の医学で対処するしか方法がありませんでした。



痘瘡(天然痘)

痘瘡は一般に「天然痘」「疱瘡」とも呼ばれます。『続日本記』の記述を精査したところ、日本で最初に流行したのは天平7年(735)ではないかとされています。

初代仙台藩主の伊達政宗は、幼い頃にかかった痘瘡で右目の光を失い、やがて独眼竜と呼ばれました。江戸時代の日本では視力を失った人が多かったのですが、痘瘡が国内で大流行を繰り返したせいだともいわれています。江戸時代に按摩の普及が最盛期をむかえるのは、視覚を失った人が多かったからかもしれません。

残念ながら、痘瘡に対する有効な治療法はありませんでした。一定期間は禁忌物を食べないようにするとか、古代・中世と同様で神頼みが精一杯。神社にお参りに行くのはもちろん、痘瘡を除けると信じられていた「痘痕絵」が出回りました。

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月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「為朝の武威痘鬼神を退く図」
パブリック・ドメイン, リンク
絵の中に描かれている武士が源為朝。源頼朝の叔父にあたり、八丈島で疫病を退治したといわれている


当時、疫病除けには赤色が効果があるとされていたため、痘痕絵は「赤絵」「紅摺絵」とも呼ばれていました。さらに、隔離された患者は赤い寝間着を身に着け、看病人も赤い服を着て、身の回りの物も赤で揃えました。それ以外にやりようがなったのでしょう。

ちなみに福島県の郷土玩具である「赤べこ」が赤色なのは、魔除けの意味があったとされ、しかも赤べこの体に描かれた黒い点は痘瘡の斑点を表すと考えられています。そういえば、飛騨地方の「さるぼぼ」も赤い色をしていますね。

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Wdqh / CC BY-SA
福島県会津地方の郷土玩具「赤べこ」


麻疹(はしか)

感染力が強く、現代でも恐れられている麻疹。最近では、国内で麻疹のワクチンを打っていない世代があることがわかり、抗体検査と接種を呼び掛けていました。

日本での最初の流行は平安時代といわれています。痘瘡に比べたら軽い病気ですが、治療を間違えると急変して命を落とすため、江戸時代では痘瘡より恐れられていました。どんな病もそうですが、栄養状態が悪い時代では、重症化して肺炎を併発することがよくあったのです。

江戸時代で最も麻疹が流行したのは文久2年(1862)、幕末の動乱の最中でした。同年の2月、長崎に寄港した西洋の船から伝わり、1日200もの棺桶が日本橋を渡ったといいます。銭湯、床屋、お宮参りの大好きな江戸の人々が麻疹の流行を恐れて家に引きこもり、その夏の町は閑散としていたとか。つい最近、私たち現代人も世界中で同じ光景を目の当たりにしました。

この時代、麻疹が流行していない時期に生まれると免疫を獲得できないため、大人でも命を落とすことがよくありました。しかし、麻疹の流行には周期性があることがわかっていたので(二十数年間隔)、江戸時代の後期には流行年表が掲載された治療書が出版されたり、麻疹をテーマにした錦絵「麻疹養伝」が出回ったりしました。
麻疹養生之伝2
「麻疹養生之伝」 
麻疹の詳しい症状と対処法が書かれている
出展:国会図書館デジタルコレクション


麻疹も有効な治療法は皆無に等しかったのですが、江戸後期には福祉が発達し、一人暮らしの患者に対しては、家主や五人組の仲間が食事などを運んで世話をしていました。そして、そのための費用は町入用で建て替え可能で、あとから奉行所が支払う仕組みができていました。


「町入用」ってなに? という方は・・・・・・




コレラ

インドの風土病だったコレラが初めて日本に伝えられたのは文政5年(1822)。幕府が異国船打払令を発布する数年前のことです。

発症してから数日で死に至ることから、「三日ころり」とも呼ばれていました。この時はまったく手が打てないうちにあっという間に西日本で広がり、特に大坂で多くの犠牲者が出たそうです。

ちなみに初めて「ころり」という呼び方を聞いたとき、てっきり「コレラ」がなまって伝わったのだと思い込んでいました。のちに「ころりと逝ってしまう」が由来だと知り、奇妙な符号を感じたと同時に戦慄を覚えた記憶があります。

初めての流行から36年後、世界では欧米列強が植民地政策を強化しようと躍起になっていました。そんな中の安政5年、アメリカの軍船ミシシッピ号から日本にコレラが再び持ち込まれたのです。

5月に長崎で始まった流行は、8月上旬には江戸に伝わり、9月末までのわずかな期間に3万~4万人が死亡。犠牲者のなかには浮世絵師の歌川広重の名前もありました。

流行はさらに北上し、東北や蝦夷地(北海道)の箱館まで拡散しました。

Yoshizo Cholera-ju
Sudō Yosizō (須藤由蔵, Japanese) / Public domain
江戸時代末期の事件や噂話をまとめた『藤原屋日記』におさめられたコレラ獣の絵。虎狼狸(ころうり)と呼ばれた日本の妖怪。この妖怪がコレラの原因ではないかといわれていた


コレラの治療に当たったのが、オランダ海軍軍医のポンぺでした。中国でコレラが流行ったことを知っていたポンぺは、日本もいずれ巻き込まれると予見し、医学生に防疫法や治療法を教えていました。病気を運んできたのが西洋なら、治療法を運んできたのも西洋とは、なんとも皮肉な話しです。 


ポンぺについてはこちら




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歴史を勉強していると、疫病が人類にもたらす大きな影響を考えずにはいられません。16世紀、メキシコの南部で栄えていたアステカ文明が滅亡したのは、ヨーロッパ人が持ち込んだ感染症が原因だといわれています。

江戸時代は鎖国の時代といわれていますが、実際にはごくごく限られた地域で外国との交易が続けられていました。それでも明治以前に世界規模で流行したペストが日本に伝わらなかったのは、日本が島国であり、限りなく鎖国に近い体制を敷いていたからかもしれません。

また、幕末に来日したアメリカ海軍のペリー提督は、日本に下水道設備があり、文明国である欧米に比べて衛生的であることに驚きます。日本人の清潔好きが感染症をおさえる要因になっているのでしょうか。

しかし、江戸末期の日本は開国の影響で物価が爆上がりしていたうえに、安政2年には大地震が発生し、さらに麻疹やコレラが大流行、しかもコレラは異国から持ち込まれたとあっては、政治不安が募るのもムリはなかったのでしょう。


安政の大地震についてはこちら


COVID-19と同じコロナウイルスでも、SARSやMERSが日本で流行しなかったせいか、今回は水際対策の難しさを思い知らせました。世界中をマッハの速さで移動できるようになった現代では、「島国だから」と安心していられなくなりました。

どこかで感染症が発生すると瞬く間に広がるだということを肝に銘じて、今はできる限りの対策に励むしかなさそうです。


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参考図書
「江戸の災害と復興」江戸文化歴史検定協会編集
「史上最強カラー図解 江戸時代のすべてがわかる本」大石 学
「猪口孝が読み解く『ペリー提督日本遠征記』」猪口 孝 監修



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ありがとうございました(o_ _)o))